わたしが『紅白旗合戦』『卒業式、実行』(初演)で演じていた生徒会長も、
『ナイゲン』のどさまわりを追いかけていただけにすぎない部分も確かにあり、
またあれら二つのキャラクターは純粋に熊谷有芳本人に依る「どさまわり的なもの」と冨坂友から採取した「どさまわり思想」の結集体なのである。
前提が遅れたが「どさまわり」とはアガリスクエンターテイメントの舞台『ナイゲン』における3年3組「どさまわり」代表の一個人を示す役名であり、
「どさまわり的なもの」「どさまわり思想」とは、千葉県立国府台高校に脈々と受け継がれてきた「学校のことは自分たちで決める」「生徒による自主自律の精神」という思想を重んじる原理主義者のことを指す。
上記の脚本では原理主義の偏りによる事件・衝突が度々おこる。
という「どさまわり」および「どさまわり的な役」をわたしは過去に3度演じてきた。
良し悪しは抜きにして、回数と種類の豊富さでいえばそれなりだという自負はある。
ニッチすぎて自慢にはならない。
ちゃんと話せば強みにはなる。
しかし本日のプレ稽古で感じたのは、己の語彙力の浅さと少なさ。
俳優として責められるべきことでもあるし
どさまわりという役をやったならもっと噛み砕いて伝えることができたほうが良かったはずである。
無論、それほどまでに分かりづらい思想であり、
分からない思想を分かるように伝えるのはそもそもかなり難題でもある。
また、そもそもわたし自身はこれらの役をやるにあたり自分の引き出しの中である程度出来てしまった過去はある。
それが良いとは思ってない。
この思想が世に広まれとも思わないが、『ナイゲン』が「若気の至り」や「青春の1ページ」の演劇としてだけ広まるのは困る。
そもそもが高校生の実体験から生まれた物語であるから仕方のないことかもしれないが、
何故に舞台上のあいつらが怒り・揺れ・泣き・笑っているのか。
青春だし若気の至りなのも否定はしない、その側面は確かにある、
ならばそれをどのように切り取り、どの視点からの切なさと感じるのか。
どさまわりという役のことだけを言えば、
千葉県の片隅にある公立高校にいる普通の高校生が、全世界、いや宇宙と対話する(気概の)話であり、
その宇宙というのが結局は千葉県市川市国府台二丁目のあの学校の中にしかない空間でそれもその思想を持つものだけの夢想空間で、
実に壮大でちっぽけなんです。
どさまわりという人も、ナイゲンという作品も。
高校生の夏に刹那的(とはいえ3日間)に情熱を注いで過ごした時間なんて、そりゃ青春だし若気の至りだよ。
その過程でどう老成していくのか。
若さと老い。
壮大さとちっぽけ。
そういう、ギャップとかズレの物語なんだろうなとも思う。
『ナイゲン』は「国府台原理主義」の教典だ。
いくつかある国府台高校シリーズの中でも、いちばん思想としてディープに語られ、その思想による支配と衝突が最も長く描かれている。
『卒業式、実行』はあくまで物語の起因として、
厄介者として、
国府台原理主義者であるところの生徒会長が存在する。
生徒会自身の葛藤というのは作品の重要な部分を担うがメインテーマではない。
『紅白旗合戦』は「生徒による自治」やそれに類するワードが頻発し、かなり国府台原理主義臭のする作品だが、
書き途中